終戦記念日にあたり 平成29年8月15日
何故私達の年代の者は戦争を嫌うのか。
戦後70年以上を経過し戦争の悲惨な状況を体験しない世代となり
首相(62歳)を始め殆どの国会議員は戦後生まれとなりました。
私は昭和15年に生まれ、戦時中から戦後にかけての悲惨な体験を
少しは経験しておりますので、皆様の参考となればと
思い記述させて頂きます。私は東京の高田の馬場で生まれ
何不自由無く生活を送っておりました。
父は戦前ミルクホール(現在では喫茶店)を営業し、
かなりの蓄財があったと聞いております。
やがて1945年3月10日の大空襲で
空から投下された焼夷弾によって自宅は火災にあいました。
4歳6ヶ月の子供でありましたが家が燃える光景を今でも思いだします。
やがて親戚の知人をたより、家族および親戚は
山口県岩国から離れたお百姓さんの家に
母に連れられて疎開致しました。
父は兵隊にとられていた為、母が私と弟を連れて行く事になったのです。
数家族が一緒に住む事になったのです。
今でも子供ながら蒸気機関車から吐出す煙や
トンネルに入ると窓を急いで閉める光景。
夜は敵機からの襲撃を避ける為、内は真っ暗となりました。
瀬戸内海の島々の美しい景色や田園風景が思い出されます。
到着した山口県の美しい錦帯橋では、滔々と流れる青い川の流れと
波に打ちあたった波が白く砕ける光景、百姓家の藁葺きの家の
外の柱の下から真っ赤な蟹が出たり入ったりする光景、
近所の小川に遊んだり川の近くの水たまりにいた
腹の真っ赤なイモリを沢山捉えて遊んだりしました。
家主のお百姓さんは草鞋(わらじ)を編んでいたのを覚えております。
あるとき朝、川で遊んでいた時に近隣の山から
急激にもくもくと立ち上る雲を見かけました。
大人になる迄あの雲は何だったのか考えた結果
昭和20年8月6日、B−29 エノラゲイによって
広島に落とされた原子爆弾(リトルボーイ)の立ち上がる
キノコ雲ではないかと想像されるのです。
広島から岩国までたったの47キロしか離れておりませんので
間違いなく私が5歳の時に見たのは原子爆弾が投下された
キノコ雲であったと確信するのです。
やがて東京に戻り、父は練馬で家を借りて生活を始めました。
両親共に苦労の挙句、池袋で進駐軍を相手に露天商を始めました。
当時高価な皮手袋や皮製の財布を扱ったので、かなり商売も順調であったそうです。
父は的屋(てきや)の子分から口上を言われた通りに真似をし、
親分の前で啖呵をきって仲間として認知されたと笑ってましたっけ。
フーテンの寅さんが映画で話している様に
わたくし、生まれも育ちも関東葛飾柴又です。
渡世上、故あって、親、一家、持ちません。
駆け出しの身持ちまして姓名の儀、いちいち高声に発します。
仁義失礼さんです。姓は車、名は寅次郎。
人呼んでフーテンの寅と発します。西に行きましても東に行きましても、
とかく土地土地のお兄ぃさん、お姐ぇさんにご厄介かけがちなる若造です。
向後万端ひきたって、宜しくお頼み申します。
いずれにせよ厳しかったですね。
食べていく為に、母親に連れられて着物をもって
お百姓さんの所へ行き食べ物と交換をお願いするのですが
殆どことわられ、すごすごと帰ると庭には真っ赤になったトマトが
美味しそうに植わっておりました。それを見ていた時
お百姓さんのかみさんがでてきてもの凄い形相で、
とるんじゃねーと言われたときの屈辱感や
恥ずかしさを今もって覚えております。
当時の練馬は池袋を電車で出発して、しばらくすると
田園風景が広がり農家の藁葺き屋根、畑、林や森が広がり、
国北独歩の武蔵野を思わせる風景でした。
冬はかなり寒く水道管が良く破裂したり、
地面は長い霜柱が立ち防火用水は氷が張っていたものです。
真冬の夜の空は満点の星に覆われきらきらと星が一斉に輝いていたものです。
この光景は現在では絶対に見えない圧倒される満点星といわれる光景です。
夜は漆黒の闇となります。戦後間もなく始まったラジオドラマの
鐘の鳴る丘が放送され私は良く聞いたものです。
とんがり帽子の時計台は安曇野市の有形文化財に指定された歴史を感じる貴重な建物です。
(復元されたと聞いております)私は20年前に訪れましたが立派な建物です。
放送では20の扉もありました。よく聴いたものです。
練馬の駅を左におり暫く行くと大きな通りに沿って小川が流れ
片岸は樹木に覆われ川は滔々と流れメダカの群れが泳ぎ塩からトンボ
麦藁トンボ、ハグロ、ギンヤンマ、が飛び回りオニヤンマが
川の流れすれすれに悠然と飛んでいる姿を思い出します。
池袋は東京空襲の後で復興の復の字も出ない最悪の経済状況で
野原が連なり富士山だけが大きく雄大な姿を見せておりました。
最悪な経済状況であった為、自殺者が多くありました。
今でも鉄道自殺があった光景が思い出されます。
茶色のジャンバーを来た男性が電車に轢かれ
頭が曲がっている姿を今でも思い出されます。
以前書きました様に上野の地下は数多くの浮浪児が屯しておりました。
ぼろぼろの服を着て頭はぼさぼさでまっ黒な顔を、誰もがしておりました。
戦争によって親と別れ別れになってしまった子供達の群れがいたのです。
戦争で海外、国内で数えきれない人々が無くなられたり
傷をおったりして生活をしなければならなかったのです。
夫婦や家族との別離、子供達を食べさせていかなければならない飢餓の世界、
誰もが必死で生活をし、母親と子供が残されたご家庭の厳しさは筆舌に尽くし
難い厳しさであったのです。国内でも東京空襲では死者が
10万人負傷者は10万人で被害にあった方々の治療するべき病院も無かったのです。
阿鼻叫喚、地獄図がそこにはあったのです。
焼けただれた身体をそのまま死を待たなければならない状況を皆様考えられますか。
楽しかった家族の絆がズタズタにされ、
ようやく上野のガード下にたどり着いた子供達の悪戦苦闘する様子を理解出来ますか、
戦争未亡人となった方が子供を抱えて食べていかなければならない状況を想像できますか。
終戦真近に軍の命令で敵艦に体当たりする特攻隊が組織的に
行われ数多くの若い隊員が上官の命令によって帰らぬ人となりました。
彼等が戦後の日本の変わり様にどう感ずるのでしょうか。
戦後日本は敵国であった米国に迎合し全面的に諸手を上げて
歓迎したその変わり身の早さを考えて下さい。
当初効果のあった特攻作戦はそのご殆ど効果がなくやたらと
パイロットと航空機を無駄に消滅させたのです。
私は現在77歳ですが私達の年代以上の方々はそのような体験をし
戦後必死で生きてきたのです。もう2度と戦争はしてはいけません。
確かに世界の状況が刻々と変化して来ております。
しかし日本人は戦争の悲惨さを世界に常に伝えて理解を得ていく国民でありたいと思うのです。
政府はそのために努力をしてきたでしょうか。
永世中立国スイスと同等に論ずる事は出来ませんが、
少なくとも戦争を無くす為の必死な努力が感じられないのです。
米国の傘に守られながら親分子分の関係ではなく、独立した政府でなければなりません。
基地の米国人の犯罪は今でも米国の法律で固く守られております。
一方敗戦国のドイツは自国の法律で基地の犯罪人を裁く事が出来るのです。
日本人としての誇りを持ち先の不幸な戦争を今後絶対に無くす様に
世界に訴えていく必要があると考えます。
戦争を行った事で日本の保有していた領土の一部は
米国にロシアに韓国に占拠されております。
誤った国の判断は未曾有の災禍となって降り注ぎ他国にも恨みを残す結果となったのです。
8月15日は終戦記念日です
私達は静かに亡くなられた方々に御霊に哀悼の意を表し、
二度と戦争を起こさないと誓いたいと思います。
葵美術刀剣日記
当社には刀を収集されるお客様が多く立ち寄られますが、中に自動車の技術関係者もおられます。
なぜ日本刀を購入されるのかとお聞きしたのですが、
FIレースに出場するサスペンションを設計する細かな技術というのは
感性が磨かれていないとほんの微妙な動き迄捉えないと完全ではないそうなのです。
設計通りではお客様は満足されないという言葉をお聞き致し感心致しました。
ですから刀や短刀を見る感覚が私達とは異なり
人工と自然とのコラボレーションの結果出来上がった作品を
覗き見て何らかの研ぎすます感覚をそこに求めておられるのだと思いました。
日本刀を、その様な目で鑑賞される方の多くに技術者、お医者さん
音楽家、弁護士、画家の先生達が意外と多いのです。
最上に研磨された作品の地金や映り、錵、地景、刃紋の働きをじっくりと鑑賞し
さらにご自分のお仕事の感性を高めていくのかもしれません。
それが現在懸命に努力された技術力の更なる味付けとなり
顧客の希望、要望を唸らせるのかも知れませんね。
刀剣愛好家の皆様にも是非この類い稀な日本刀の魅力をより深く触れて下さい。
日本刀を一つの役割の一部としてお子様教育を行って下さい。
奥様と仲良く。お子様には厳しく、何故何故という質問には丁寧に説明し動機付けを行って下さい。
何故勉強するの、何故頑張らなければいけないの 等々。お年寄りを労りましょう。
私もお年寄りですが虐めないでね、 暑かったり寒かったり不可思議な天気が続きます。
どうか体調にはご留意され明るく楽しい日々お過ごしください。
それでは皆様御機嫌よう
日本の政治を良くする会 ドンキホーテ 会長 鶴田一成